岡田史子作品集『オデッセイ1966〜2003ガラス玉』と同じく『ピグマリオン』を読んだ。
サンコミックス版で岡田史子の漫画は読んでいたが、未発表作も収録されているとあって、再読してみたのだ。
ほとんどが60年代の作品で、自分の小学生時代とかぶっている。作品も小学生時代に読む世界の文学を思わせて、60年代の追体験としては理想的な再会だったと言えるだろう。
実際には僕は小学生どころか大学卒業するくらいまで、まったく文学を読まなかったのだが、嘘の経験を刷り込むにはピッタリだ。
ギリシア神話や演劇や、詩など、僕にとっての60年代を塗り替えてくれた気分だ。
これは、現代の漫画家がいくら頑張って文学的世界を築こうとしても不可能な気がする。
『ガラス玉』
ガラス玉
サンルームのひるさがり
黄色のジャン・川辺のポエム
フライハイトと白い骨
ポーヴレト
赤と青
天国の花
春のふしぎ
トッコ・さみしい心
オルペとユリデ
いずみよいずみ
私の絵本
イマジネイション
夢の中の宮殿

『ピグマリオン』
墓地へゆく道
太陽と骸骨のような少年

ピグマリオン
死んでしまった手首−阿修羅王(前・後編)
耳なしホッホ
火焔−ひがもえる
火焔
Kaen
海の底の日よう日
邪悪のジャック
胸をいだき首をかしげるヘルマプロディトス
赤い蔓草(PART1・2)

また、岡田史子による「自分史を語る」(エッセイ)と監修者青島広志による「青島広志のスケッチブックより」(スケッチ)が巻末に分載されている。
『ピグマリオン』には1970年のインタビューも再録されており、これもまた、当時の世相を伝えている。

楽しい読書体験だった。一番好きだった「ガラス玉」はあいかわらず面白かった。
ガラス玉を失って分身を死なせてしまった少年が、ガラス玉を求めて「アトラクシア」という国に向かう。置き去りにされて「ガラス玉ってなんなのよ、レドのばか!」と泣く女。
女は、当初、少年レド・アールの尻をたたいて一緒にガラス玉探しにおもむくのだが、いざ、アトラクシアに行けばガラス玉が得られるとわかると、こう言い出す。
「だめよレド・アール!いっちゃだめ」
「へんだわよ。はじめからおわりまで奇妙だわ…およそ現実ばなれしたはなしだわ」
そのとおり。ガラス玉は精神と置き換えてもいいもので、工場で働きだして、ヴェイユよろしく精神を失ってしまったレド・アールは、アタラクシアをめざすのだ。即物的なガラス玉探しには乗り気だった女は、こうした精神の問題にはついていけない。
アタラクシア(平穏な快)をアトラクシアと書いているのは、そこに「アトラクト」という意味を付け加えたのかもしれないし、「タ」を「ト」に、「A」を「O」に変えることで、少年愛の肛門的快より言葉(文学)の快を求める作者の立場を表明したのかもしれない。
「タ」と「ト」で「外」という文字を分裂させることで、外部の亀裂を示した、という解釈は、「なんのこっちゃ」の言い過ぎだろうが、そんなことまで考えさせられる。

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