バートルビー―偶然性について、ありがとう、銀座カンカン娘
2006年2月3日 読書
ジョルジョ・アガンベンの『バートルビー〜偶然性について』を読んだ。
アガンベンの論文「バートルビー〜偶然性について」と、ハーマン・メルヴィルの小説「バートルビー」、翻訳者高桑和巳による解説「バートルビーの謎」がおさめられている。
バートルビーという男が法律文書を筆写する仕事につく。
書いた内容の読み合わせを頼まれたときに「しないほうがいいのですが」と拒絶したところからはじまって、雑用全般の依頼にも「しないほうがいいのですが」と断る。しまいには、仕事そのものを「しないほうがいいのですが」と、何もしなくなる。でも、毎日職場にやってきて、じっとしているのだ。
クビにしても毎日来るし、事務所を引っ越しても、元のビルに毎日やってくる。
いかなる申し出に対しても、「しないほうがいいのですが」とやんわり断って、何もしない。
浮浪者扱いで監獄に入ってからは、食事ですら「しないほうがいいのですが」と食べずに、ついに死んでしまう。
小説は、バートルビーを雇った法律家の視点から描かれており、彼はなんとかしてバートルビーを理解し、救おうとするのだが、ついに思ったような救済は与えられないのだ。
高桑氏の解説は、この小説をテーマにブランショやデリダ、ドゥルーズらが考察した内容をまとめたものだ。
ブランショは「受動性」を見い出し、デリダは「抵抗=分析」を見、ドゥルーズは「不分明地帯」を発見する。
ブランショがいうには、「しないほうがいいのですが」は拒絶よりも前の段階の、辞退であり、拒否する自我、意志以前の問題なのだ。文学の解釈が文学から遠いのと同様、バートルビーの謎は解決されるためにあるのではなく、謎そのものなのである。
デリダは、バートルビーが「然り」とも「否」とも言わないことを精神分析の方法であることを言う。バートルビーへの共感、つまりは謎ときは、自分の「読解」が介入しているかぎり、自分勝手な排除や包含を免れ得ないのだ。
ドゥルーズは、「しないほうがいいのですが」の伝染性に目をつける。この定式によって、自分がこれからしようとしていたこと、したかったことまでが不可能になっていくのだ。
アガンベンは、「潜勢力」の観点からバートルビーを見る。潜勢力の対概念は、現勢力で、たとえば、過去に起こった出来事についてはもう決定しているのだから「現勢力」である。
潜勢力は、「あらゆるものは存在するかさもなければ存在しないかである」である状態で、あるものは存在することもできるし、存在しないこともできる。これがタイトルにも謳われた偶然性というものだ。
バートルビーは「しないほうがいいのですが」と言って、何もしない。それをマイナスのイメージでとらえずに、潜勢力でとらえたのがアガンベンなのだ。潜勢力は意志によって現勢力にかわる。神は秩序づけられた潜勢力では意志に合致したことしか為すことができないが、バートルビーは意志なしでいることができ、それは絶対的潜勢力(どのようなことも為すことができる)によってのみ可能になる。意志なきところに実効性はない、という考えにバートルビーは疑問を投げかける。バートルビーの潜勢力は意志を超え出ているのだ。
アガンベンはこの「潜勢力」に関する論文をいくつも発表しており、この「バートルビー」はその1つにすぎない。それらは英語版では『潜勢力』イタリア語版では『思考の潜勢力』というどちらも大部の本として出版されている。日本語版の翻訳を待ちたい。どうも、僕の読解力では『バートルビー〜偶然性について』だけではまとめることすらできない。
昨日に引き続き、山本直樹の『ありがとう』全4巻を読んだ。
これもまた、嫌な人間ばかりが出て来る話だ。
因縁つけて家を占拠し、レイプ三昧するヤク中の不良たち。
彼らに蹂躙された家族の物語だ。
外に出れずひきこもる姉、ぐれる妹、新興宗教にはまる母、家族至上主義の父。
人のスキャンダルを友達面して広めるクラスメイト。いつまでも弱いいじめられっ子などなど。
人間の醜い面がオンパレードで出て来る。
でも、この『ありがとう』めちゃくちゃ面白かった。
これがあの『極めてかもしだ』と同じ作者なのか?と疑うほどに素晴らしい。
『極めてかもしだ』では寺山修司の映画「書を捨てよ町へ出よう」のパロディがあったが、この『ありがとう』では小津映画からの引用が随所に出て来る。
現代の最悪な家族関係の中で引用される小津映画が、しっくりくるような、違和感あるような、不思議な感覚で迫ってくる。
家族という幻想が不幸と絶望を産む原因でもあるのだが、それでも家族に「ありがとう」と言ってしまうのは、もうホラーとしかいいようがない。
ケーブルテレビで放送していた「銀座カンカン娘」を見た。島耕二監督、1949年。
高峰秀子、笠置シヅ子、灰田勝彦、浦辺粂子、古今亭志ん生
これは以前にも見たことがあったが、笠置シヅ子も高峰秀子も好きなので、ついつい最後まで見てしまった。
まず、高峰、笠置のシーツ巻いてはだけるのを気にしながら会話したりするのが、とてもセクシー。
ラスト、いきなりのように志ん生の落語がはじまって、落語の終わりがそのまま映画の終わりになっているのも、不思議な感覚で面白い。昔の映画って、終わるときはとても潔い。
あと、デブの岸井明が歩くと、家の中のものが落ちたりするギャグがしつこすぎて、面白かった。
アガンベンの論文「バートルビー〜偶然性について」と、ハーマン・メルヴィルの小説「バートルビー」、翻訳者高桑和巳による解説「バートルビーの謎」がおさめられている。
バートルビーという男が法律文書を筆写する仕事につく。
書いた内容の読み合わせを頼まれたときに「しないほうがいいのですが」と拒絶したところからはじまって、雑用全般の依頼にも「しないほうがいいのですが」と断る。しまいには、仕事そのものを「しないほうがいいのですが」と、何もしなくなる。でも、毎日職場にやってきて、じっとしているのだ。
クビにしても毎日来るし、事務所を引っ越しても、元のビルに毎日やってくる。
いかなる申し出に対しても、「しないほうがいいのですが」とやんわり断って、何もしない。
浮浪者扱いで監獄に入ってからは、食事ですら「しないほうがいいのですが」と食べずに、ついに死んでしまう。
小説は、バートルビーを雇った法律家の視点から描かれており、彼はなんとかしてバートルビーを理解し、救おうとするのだが、ついに思ったような救済は与えられないのだ。
高桑氏の解説は、この小説をテーマにブランショやデリダ、ドゥルーズらが考察した内容をまとめたものだ。
ブランショは「受動性」を見い出し、デリダは「抵抗=分析」を見、ドゥルーズは「不分明地帯」を発見する。
ブランショがいうには、「しないほうがいいのですが」は拒絶よりも前の段階の、辞退であり、拒否する自我、意志以前の問題なのだ。文学の解釈が文学から遠いのと同様、バートルビーの謎は解決されるためにあるのではなく、謎そのものなのである。
デリダは、バートルビーが「然り」とも「否」とも言わないことを精神分析の方法であることを言う。バートルビーへの共感、つまりは謎ときは、自分の「読解」が介入しているかぎり、自分勝手な排除や包含を免れ得ないのだ。
ドゥルーズは、「しないほうがいいのですが」の伝染性に目をつける。この定式によって、自分がこれからしようとしていたこと、したかったことまでが不可能になっていくのだ。
アガンベンは、「潜勢力」の観点からバートルビーを見る。潜勢力の対概念は、現勢力で、たとえば、過去に起こった出来事についてはもう決定しているのだから「現勢力」である。
潜勢力は、「あらゆるものは存在するかさもなければ存在しないかである」である状態で、あるものは存在することもできるし、存在しないこともできる。これがタイトルにも謳われた偶然性というものだ。
バートルビーは「しないほうがいいのですが」と言って、何もしない。それをマイナスのイメージでとらえずに、潜勢力でとらえたのがアガンベンなのだ。潜勢力は意志によって現勢力にかわる。神は秩序づけられた潜勢力では意志に合致したことしか為すことができないが、バートルビーは意志なしでいることができ、それは絶対的潜勢力(どのようなことも為すことができる)によってのみ可能になる。意志なきところに実効性はない、という考えにバートルビーは疑問を投げかける。バートルビーの潜勢力は意志を超え出ているのだ。
アガンベンはこの「潜勢力」に関する論文をいくつも発表しており、この「バートルビー」はその1つにすぎない。それらは英語版では『潜勢力』イタリア語版では『思考の潜勢力』というどちらも大部の本として出版されている。日本語版の翻訳を待ちたい。どうも、僕の読解力では『バートルビー〜偶然性について』だけではまとめることすらできない。
昨日に引き続き、山本直樹の『ありがとう』全4巻を読んだ。
これもまた、嫌な人間ばかりが出て来る話だ。
因縁つけて家を占拠し、レイプ三昧するヤク中の不良たち。
彼らに蹂躙された家族の物語だ。
外に出れずひきこもる姉、ぐれる妹、新興宗教にはまる母、家族至上主義の父。
人のスキャンダルを友達面して広めるクラスメイト。いつまでも弱いいじめられっ子などなど。
人間の醜い面がオンパレードで出て来る。
でも、この『ありがとう』めちゃくちゃ面白かった。
これがあの『極めてかもしだ』と同じ作者なのか?と疑うほどに素晴らしい。
『極めてかもしだ』では寺山修司の映画「書を捨てよ町へ出よう」のパロディがあったが、この『ありがとう』では小津映画からの引用が随所に出て来る。
現代の最悪な家族関係の中で引用される小津映画が、しっくりくるような、違和感あるような、不思議な感覚で迫ってくる。
家族という幻想が不幸と絶望を産む原因でもあるのだが、それでも家族に「ありがとう」と言ってしまうのは、もうホラーとしかいいようがない。
ケーブルテレビで放送していた「銀座カンカン娘」を見た。島耕二監督、1949年。
高峰秀子、笠置シヅ子、灰田勝彦、浦辺粂子、古今亭志ん生
これは以前にも見たことがあったが、笠置シヅ子も高峰秀子も好きなので、ついつい最後まで見てしまった。
まず、高峰、笠置のシーツ巻いてはだけるのを気にしながら会話したりするのが、とてもセクシー。
ラスト、いきなりのように志ん生の落語がはじまって、落語の終わりがそのまま映画の終わりになっているのも、不思議な感覚で面白い。昔の映画って、終わるときはとても潔い。
あと、デブの岸井明が歩くと、家の中のものが落ちたりするギャグがしつこすぎて、面白かった。
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