グルーヴ17

2006年1月24日 読書
戸梶圭太の『グルーヴ17』を読んだ。
安くて格好悪い学園青春地獄。
高校生頃の思春期に特有の泥沼のようなどうどうめぐりが描かれている。
小見出しを少し抜粋してみると
「ヤリまくったら死んでもいい」
「こうまでヤな女だと、抜けねえ」
「ムカつくけど、こいつしかいねえんなら」
「ああ、なんでこんなにムカムカすんだろ」
「バレちまったもんはしょうがねえか」
とか、もう焦燥感たっぷり。
思春期は性と死に極端に振り子が左右する。エロスとタナトス、なんてカタカナ使うのももったいない、底の浅いアップアップ状態が続くのだ。
「マジ死のうかな。どうせ卒業してもやることねえし、やりてえこともねえし。取り得もねえし。どうせ皆からバカにされて生きるだけだ。俺なんかいてもいなくてもいい人間なんだ。俺が死んだって、世の中は何一つ変わらねえ。楽に死にてえなあ」
なんて、寝る前に考えたりする。
これがさらにうだうだ続くのだ。
主人公の1人は宅録でテクノ作って悦に入っている。思いがけず、クラブでプレイできると決まったとたんに舞い上がって、もう心はモテモテ状態。
「終わったら一緒に帰れっかな。手ぇ繋げたりして。いやいやキスまでしたりして。マジかよ!俺たち付き合っちゃうのかな。希ちゃん、あのギタリストとあっさり別れて俺と付き合うかも。そうなったらすげえ!希ちゃんと俺で互いに初めてのセックスを!」
そうかと思えば、別の高校生はこんな風になっている。
「ヤリてえ!
今日はヌイてもまだ頭がギラギラしている。あんまりヤリたくて髪の毛の根元がチリチリする。
くそ。マジで女さらおうかな」
「ああ畜生!マンコのことしか考えられねえ、別に他のこと考える必要もねえんだけど」
これらは、まさに、自分の高校時代の日記を見るようで、笑い事ではないのだ。
悶々とした思春期は脳内でへとへとになるまで足掻きつづける。
この作品では、町のチンピラが外部要素として侵入してきて、思春期の悶々が引き返せない現実としてあらわれてしまう。
そのあたりは、先日読んだ『さくらの唄』と同様のテーマになっている。
思春期は妄想の地獄なのだ。
現代は、その地獄が現実に簡単に侵入してくるのが、諸問題の根源なんじゃないか。
「思春期の現実化」こそ、今を考えるのに最も有効なテーマなのだ。

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