贋救世主アンフィオン―一名ドルムザン男爵の冒険物語
2005年12月5日 読書
ギヨオム・アポリネールの『贋救世主アンフィオン〜一名ドルムザン男爵の冒険物語〜』を読んだ。これは辰野隆、鈴木信太郎、堀辰雄の共訳による野田書房版(昭和11年刊)を新字体にして今年9月に沖積舎から再刊されたもので、北川健次によるコラージュ作品が挿し絵として配されている。
収録された短編は以下のとおり。
『案内人』アンフィオニイが語られる。これは、昔アンフィオンが都会を形成する切石や材料を音楽の不思議な力で動かした故事にならって名付けられたという。ドルムザン男爵は、このアンフィオニイはアリストテレスの逍遥学派に基づいた新しい芸術だと、ふいているが、その実態はまさに人を食ったものだ。
アンフィオニイ芸術での楽器にあたるものは、都会そのもの。それを演奏するとは、つまり、都会を歩き回ることに他ならない。楽譜に書く行為は、地図上に道筋を書き留めておくこと。ドルムザン男爵は『祖国の為に』という愛国的感情を鼓吹する交響曲(アンチオペエ図式)を紹介したりする。要するに、アンフィオニイの実践とは、散歩にすぎない!
彼は芸術のために、観光客をガイドするにあたって、そこらへんの建物を勝手に「あれがオペラ座でございます」とか「リュクサンブウル宮殿でございます」と紹介し、小さな町でフランス観光を終わらせたりしているのだ。
『美しい映画』映画のために実際に犯罪をおかし、それをフィルムにおさめる。おそらくは世界ではじめてスナッフ映画の可能性を語っている。そして、実際の犯罪の方は、無処罰というわけにはいかないので、適当な近東人を逮捕する。もちろん無罪をいいたてるが、誰が近東人の言うことなどに耳を傾けるものか。アリバイもあやふやだったので、死刑になる。その死刑執行ももちろん、映画に残されるのだ。
これ、最近似たような話があったなあ、と思った。
広島の小学生殺害事件だ。おそらく近所の人たちが、ピサロ容疑者のことを「あの外人、ふだんから怪しいと思ってた」という感じで、密告したのだろう。日本語が堪能でないピサロは自分が不法滞在である弱味もあって、殺害容疑に対する有効な弁解も展開できぬままに逮捕されたにちがいない。おまけに、「どうして自分がこんな目にあうのか」ということの言い回しが、直訳されて「悪魔が云々」の発言になる。日本人がたとえば「魔がさした」とうっかり言ったら、外国人が直訳して、「あの日本人は悪魔が中に侵入してきたと言ってる!」と大騒ぎしてるようなものだ。
外人だというだけで不審者扱いする近所の住人の偏狭さもムラっぽいし、さらに、その後、ピサロに前科があったとマスコミが報道して、ピサロを悪魔に仕立て上げるやりくちも納得いかない。
前科があるという情報もいまいち怪し気な感じだし、たとえ、前科があっても、だからと言って、今回の広島の事件の犯人である証拠にはならないはずだ。前科者は信用ならん、怪しいというこれもまた偏狭な差別が存在している。
でも、とりあえず、広島の住人たちは、同じ日本人が犯人でなく、えたいのしれない外人がつかまったことで、二重の意味でほっと安心しているだろう。そうでなくても排除したくてたまらなかった外人なのだから。
『ロマネスクな葉巻』葉巻の中に一緒に巻かれてあった1通の手紙。
『癩病』イタリア語がむずかしくて、あやうく癩病にかかりかけた話。こう書くと、興味津々だが、お察しのとおり、ネタは勘違い、同音異義、だじゃれです。
『コックス市』ゴールドラッシュで人が集まった町に冬将軍がくる。
多くの人間は凍えて飢え死にし、ドルムザン男爵は、死人を食べて生き残る。
『遠距離触覚』同時に複数の場所に姿をあらわすことができる装置を開発した男爵。これぞまさしく、救世主の顕現。
同時に複数の場所にあらわれる聴覚(ラジオ)、視覚(テレビ)があるのなら、触覚もいずれ発明されるだろう、という発想だ。
以上の6編。『贋救世主アンフィオン』は異端教祖株式会社に収録されていたはずだが、25年ほど前に読んだ本なので、今回、何ひとつ思い出すこともなく新しく読めた。
そして、20代の頃、アポリネールが好きだったことを思い出し、「そりゃ好きだろうな。いかにも僕の好きそうな話だ」と納得した。そんなに好きだったのなら、再読くらいしろ、という感じだが。
収録された短編は以下のとおり。
『案内人』アンフィオニイが語られる。これは、昔アンフィオンが都会を形成する切石や材料を音楽の不思議な力で動かした故事にならって名付けられたという。ドルムザン男爵は、このアンフィオニイはアリストテレスの逍遥学派に基づいた新しい芸術だと、ふいているが、その実態はまさに人を食ったものだ。
アンフィオニイ芸術での楽器にあたるものは、都会そのもの。それを演奏するとは、つまり、都会を歩き回ることに他ならない。楽譜に書く行為は、地図上に道筋を書き留めておくこと。ドルムザン男爵は『祖国の為に』という愛国的感情を鼓吹する交響曲(アンチオペエ図式)を紹介したりする。要するに、アンフィオニイの実践とは、散歩にすぎない!
彼は芸術のために、観光客をガイドするにあたって、そこらへんの建物を勝手に「あれがオペラ座でございます」とか「リュクサンブウル宮殿でございます」と紹介し、小さな町でフランス観光を終わらせたりしているのだ。
『美しい映画』映画のために実際に犯罪をおかし、それをフィルムにおさめる。おそらくは世界ではじめてスナッフ映画の可能性を語っている。そして、実際の犯罪の方は、無処罰というわけにはいかないので、適当な近東人を逮捕する。もちろん無罪をいいたてるが、誰が近東人の言うことなどに耳を傾けるものか。アリバイもあやふやだったので、死刑になる。その死刑執行ももちろん、映画に残されるのだ。
これ、最近似たような話があったなあ、と思った。
広島の小学生殺害事件だ。おそらく近所の人たちが、ピサロ容疑者のことを「あの外人、ふだんから怪しいと思ってた」という感じで、密告したのだろう。日本語が堪能でないピサロは自分が不法滞在である弱味もあって、殺害容疑に対する有効な弁解も展開できぬままに逮捕されたにちがいない。おまけに、「どうして自分がこんな目にあうのか」ということの言い回しが、直訳されて「悪魔が云々」の発言になる。日本人がたとえば「魔がさした」とうっかり言ったら、外国人が直訳して、「あの日本人は悪魔が中に侵入してきたと言ってる!」と大騒ぎしてるようなものだ。
外人だというだけで不審者扱いする近所の住人の偏狭さもムラっぽいし、さらに、その後、ピサロに前科があったとマスコミが報道して、ピサロを悪魔に仕立て上げるやりくちも納得いかない。
前科があるという情報もいまいち怪し気な感じだし、たとえ、前科があっても、だからと言って、今回の広島の事件の犯人である証拠にはならないはずだ。前科者は信用ならん、怪しいというこれもまた偏狭な差別が存在している。
でも、とりあえず、広島の住人たちは、同じ日本人が犯人でなく、えたいのしれない外人がつかまったことで、二重の意味でほっと安心しているだろう。そうでなくても排除したくてたまらなかった外人なのだから。
『ロマネスクな葉巻』葉巻の中に一緒に巻かれてあった1通の手紙。
『癩病』イタリア語がむずかしくて、あやうく癩病にかかりかけた話。こう書くと、興味津々だが、お察しのとおり、ネタは勘違い、同音異義、だじゃれです。
『コックス市』ゴールドラッシュで人が集まった町に冬将軍がくる。
多くの人間は凍えて飢え死にし、ドルムザン男爵は、死人を食べて生き残る。
『遠距離触覚』同時に複数の場所に姿をあらわすことができる装置を開発した男爵。これぞまさしく、救世主の顕現。
同時に複数の場所にあらわれる聴覚(ラジオ)、視覚(テレビ)があるのなら、触覚もいずれ発明されるだろう、という発想だ。
以上の6編。『贋救世主アンフィオン』は異端教祖株式会社に収録されていたはずだが、25年ほど前に読んだ本なので、今回、何ひとつ思い出すこともなく新しく読めた。
そして、20代の頃、アポリネールが好きだったことを思い出し、「そりゃ好きだろうな。いかにも僕の好きそうな話だ」と納得した。そんなに好きだったのなら、再読くらいしろ、という感じだが。
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