『日本像を問い直す』を読んだ。小学館の「海と列島文化」完結記念シンポジウムの記録。
網野善彦(歴史学)、谷川健一(民俗学)、大林太良(文化人類学)、宮田登(民俗学)、森浩一(考古学)の5人の編集委員が集まって、意見を闘わせる。途中で渡部忠世(作物学)の特別報告も入る。
第1部 提論
列島社会の新たな実像を求めて(網野善彦)
比較すべきこと(大林太良)
列島の民族文化をどうとらえるか(宮田登)
貝と日本文化(森浩一)
倭的日本人(谷川健一)
第2部 討論
列島社会の多様性
(特別報告「稲と村を東南アジア島嶼域からみる」)
日本人の特性と「島国論」
これからの課題

この本では、先日読んだ「対談」ではなく「討論」がなされる。
谷川氏が提論で「倭と言う字は女性がしゃがんで稲を刈り取る姿からきている。倭は、まっすぐでないことをあらわしているのだ。倭と言う字には醜い顔つき、捨てる、曲げる、正直でない、という意味がある」と言い、古来よりの日本人の閉鎖的島国根性を糾弾する。
それに対して、網野氏は「7世紀に日本という国号を決めてから以降の日本のあり方に問題があった。それ以前には日本も日本人もない」と、いつもの持論を展開する。
谷川氏は「倭国から日本へ変わったのは国号だけ。そこに住む民族の主体には何の変化もなかった。そんな呼称だけを問題にするのはおかしい」と噛み付いた。
網野氏は「倭という名を嫌って、日本を名乗ったことが、この国家の歴史にとって大きな意味をもっている。国家が民族意識の形成に強い影響を持っているのは間違いない」という。
網野氏は、なんとなく最初から日本人が列島にいたという見方にとらわれると、ナンセンスな建国記念の日の虚偽も明確にできない、と言いたいのだ。
網野氏の「日本の国号」にこだわる理由が、はっきりと示されたのだ。

また、日本は稲作が主流だとする農本主義の弊害を網野氏は再三にわたって力説する。
それに対して、大林氏は日本にとって稲作がどれだけ重要であるかを力説。真っ向から意見が対立する形になる。
さらに、特別報告の渡部氏が「たとえ、畑作や漁業やその他の生業をもって生きる地域が各地にあったとしても、稲作は国家の命運に関与せざるをえなかった。稲作を核とする農村において米作りの生活を共有する大多数の農民たちの労働や祭りなどが中心となって、国家レベルにおける共通の文化が形成された」と、網野氏の論を一蹴する。
網野氏がいかに学者たちから受け入れられなかったかがよくわかる。
でも、まわりがどう言おうが、まわりにあわせていれば摩擦はおきないと忠告されようが、自分の意見を変えない。
単に頑固なだけでなく、一本筋がとおっているのだ。

そんな(損な)生き方に共鳴しつつ、僕がこの本で一番「ホホー」と思ったのは、「ういろう」(外郎)が中国語だと知ったこと。なんだ。雑学の本でも読んどけってか?

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

日記内を検索