ムービー・スタジオ・アドベンチャー、フーコーとクイア理論
2005年3月30日 読書
大阪高島屋で開催中の「ムービー・スタジオ・アドベンチャー〜映画の世界に飛び込もう〜」を見に行った。ユニバーサル・スタジオ・ジャパンのミニアトラクションとグッズ販売。バックドラフトとかユニバーサル・モンスターのアトラクションはいかにもチャチだし、特に欲しいグッズを売っているわけでもなかったが、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに長く行っていないことを思い出し、そろそろ行こうかな、という気になった。まんまと思うつぼである。
タムシン・スパーゴの『フーコーとクイア理論』を読んだ。岩波書店から出ているポストモダン・ブックスの1冊だ。ミシェル・フーコーが死んだのは1984年。クイア(変態?おかま?)にも変化があるだろうし、フーコーの理論にも批判なり発展なりがあるはずだ。フーコー以降の動向にも本書は触れている。ただし、原書は1999年に出ている。それから5年以上たった今、さらに変化があるはずである。
フーコーについてもゲイについても詳しくないので、あくまでも本書を読んでいて覚え書きに残しておきたいところを挙げてみる。
「セクシュアリティは生まれつきの資質でも、人生における事実でもない。それは生物学的な起源というよりも、むしろ歴史的、社会的、文化的な起源を持つ、経験の構築されたカテゴリーである」これはフーコーの典型的な考え方だ。
「男色者は一時的な異常者にすぎなかったが、同性愛者はひとつの種族である」これはフーコーの『性の歴史』から。16世紀の男色者はソドミーの実践者を意味したが、19世紀以降の同性愛者は、心の半陰陽を意味するのだ。
「理論上クイアは、支配的な異性愛であれ、ゲイ/レズビアンのアイデンティティであれ、正常なものや規範とは永久に両立しない。それは決定的に中心から離れ、正常からは程遠いものなのである」クイアは同化、許容ではなく、その差違を強調するのだ。
「クイア理論とは、対立の外側に移動したり、対立を転倒させたりするよりも、むしろこの二項対立が知と権力の道徳的、政治的なヒエラルキーを形成してきた経緯を考察することだと言えるだろう」これはフーコー以後の動向。クイア理論は99年当時、その抽象性、日常生活への明らかな侮蔑により、攻撃されているという。埒のあかないポストモダン的言説に人々は業を煮やしたのだ。一方、エイズ以来同性愛嫌悪が噴出している。
本書の解説部分は土屋恵一郎が書いている。これが今の日本の状況を一番あらわしているはずで、書いてある内容も興味深い。日本社会は同性愛について寛容だという気分を、解説者は否定する。パゾリーニの映画みたいに、ホモだという理由でよってたかって殺されることはないが、寛容ではない。本書の「われわれはここにいる。われわれはクイアだ。当然と思ってほしい」との声はいつまで続くのか。
タムシン・スパーゴの『フーコーとクイア理論』を読んだ。岩波書店から出ているポストモダン・ブックスの1冊だ。ミシェル・フーコーが死んだのは1984年。クイア(変態?おかま?)にも変化があるだろうし、フーコーの理論にも批判なり発展なりがあるはずだ。フーコー以降の動向にも本書は触れている。ただし、原書は1999年に出ている。それから5年以上たった今、さらに変化があるはずである。
フーコーについてもゲイについても詳しくないので、あくまでも本書を読んでいて覚え書きに残しておきたいところを挙げてみる。
「セクシュアリティは生まれつきの資質でも、人生における事実でもない。それは生物学的な起源というよりも、むしろ歴史的、社会的、文化的な起源を持つ、経験の構築されたカテゴリーである」これはフーコーの典型的な考え方だ。
「男色者は一時的な異常者にすぎなかったが、同性愛者はひとつの種族である」これはフーコーの『性の歴史』から。16世紀の男色者はソドミーの実践者を意味したが、19世紀以降の同性愛者は、心の半陰陽を意味するのだ。
「理論上クイアは、支配的な異性愛であれ、ゲイ/レズビアンのアイデンティティであれ、正常なものや規範とは永久に両立しない。それは決定的に中心から離れ、正常からは程遠いものなのである」クイアは同化、許容ではなく、その差違を強調するのだ。
「クイア理論とは、対立の外側に移動したり、対立を転倒させたりするよりも、むしろこの二項対立が知と権力の道徳的、政治的なヒエラルキーを形成してきた経緯を考察することだと言えるだろう」これはフーコー以後の動向。クイア理論は99年当時、その抽象性、日常生活への明らかな侮蔑により、攻撃されているという。埒のあかないポストモダン的言説に人々は業を煮やしたのだ。一方、エイズ以来同性愛嫌悪が噴出している。
本書の解説部分は土屋恵一郎が書いている。これが今の日本の状況を一番あらわしているはずで、書いてある内容も興味深い。日本社会は同性愛について寛容だという気分を、解説者は否定する。パゾリーニの映画みたいに、ホモだという理由でよってたかって殺されることはないが、寛容ではない。本書の「われわれはここにいる。われわれはクイアだ。当然と思ってほしい」との声はいつまで続くのか。
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