愚か者の哲学

2005年2月17日 読書
竹田青嗣の『愚か者の哲学』を読んだ。サブタイトルに「愛せない場合は通り過ぎよ!」というニーチェの言葉が掲げてある。
一般人が日常生活を送る上での、役立つ哲学を展開しようとする著者の態度が、この本をとても読みやすいものにしている。
著者は人生を「こども」「若者」「大人」の3つの段階にわけて、そのときどきに直面する人生の問題に哲学がどんなふうに考えてきたかをわかりやすく解説している。
まず、「子どもの哲学」では、子どもにとっての「いたずら」の意味を探ったり、学校に行く意味を考えたりしている。それぞれの短い章には哲学者の言葉がまず引用されて、それにそって1つ1つ問題を考えていく体裁をとっている。
たとえば「自己愛〜ほめられたいという欲望」の章では、ラ・ロシュフーコーの「自己愛は、あらゆるおべっか使いのなかで、最も力強い者だ」という言葉がひかれる。自己愛が人間最初の欲望で、人間独自のものであることを解説したうえで、人間の自我がルールの束によって成立することを説明し、「ルールを守る」と「ほめられる(自己愛)」の関係から、自我が「他者から評価される」ことにより成立していく事情を明かしていく。
この「子どもの哲学」で興味深かったのは、「なぜ学校に行くのか」を考えた部分だ。学校は子どもの個性を引き出したり、人間性を伸ばすことが目的の場所なのではない。親、生まれといった与件をリセットして、生徒みんなが同じ条件でスタートすることのできるモデルとして存在しているのだ。
次の「若者の哲学」では「自己意識」「人間関係」「初恋」「恋愛」といったテーマが扱われる。ここらは著者の得意分野だろう。
「大人の哲学」では「失恋」「絶望」「ルサンチマン」「死の恐怖」「ニヒリズム」「不幸」などについて考察されている。おいおい、大人ってあんまり楽しそうじゃないなあ。
哲学は愚かであることから脱却することを目的としていない。この本では、自分だけは愚かでない、と考えることの危険性を繰り返して説いている。
サブタイトルのニーチェ『ツァラトゥストラ』からの引用「愛せない場合は通り過ぎよ」は、ツァラトゥストラがある愚か者に出会ったときの言葉である。愚か者は、世の中の人間はみんな俗物で、野心家と戯れ言使い、悪徳にまみれていると嘆く。でも、それを聞いたツァラトゥストラは、彼が自分一人高貴な魂の持ち主であるかのような口ぶりを肯定しようとしない。愚か者の心は恨み、ルサンチマンに満ちているのだ。そんなことでは、言ってることがたとえ正しくても、誰も耳を傾けない。ツァラトゥストラは「愛せないのなら、通り過ぎよ」と言うのだ。どれほど相手が理不尽で間違っていると感じても、愛せなければ、どんな試みも無駄だ、と著者は説いている。
なお、この本で一番面白かったのは、知的スノッブ(俗物)について書かれた章でひかれたモンテーニュの言葉だ。
「ハムは飲みたくさせる。飲めば渇きが癒される。故にハムは渇きを癒す。もし若者がこんなことを言い出したら、相手にしないのが賢明である」(『エセー』より)

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