アッカンベーする「ひらちれ」を見た。
あっ間違えた。ジョルジョ・アガンベンの『開かれ』を読んだ。サブタイトルに「人間と動物」とある。
本書ではまず13世紀のヘブライ語聖書の中にある「エゼキエルの幻視」と名付けられた細密画から話がはじまる。そこには最後の審判の日における義人たちの宴が描かれているのだが、その義人の姿を見ると、動物の顔をしていたりするのである。義人というのは人間としての完全体なのに、なぜ半人半獣の姿なのか。
本書は人間と動物の違いについて、生物学的な見地や哲学的な見方で探究していく。人間を動物と分かつものとして使われるのが、フリオ・イエージが用いた「人類学機械」という考え方だ。
人間を動物や非人間と区別して、人間を製造する装置を人類学機械と名付けたのだ。たとえば、人間中心主義などはりっぱな人類学機械に入る。
また、人間を動物や非人間と峻別する操作は、同時に生の問題にもかかわってくる。「生とは何か」は「人間とは何か」と密接に結びついているのだ。
アリストテレスは『魂について』で栄養の能力による植物的生を生の範疇におさめた。この「植物的生」の考え方は、18世紀フランスのビシャによる「器質的な生」「動物的な生」の区別にも応用される。器質的生は血液や呼吸などによる循環で、動物的生は外部世界との関係を意味する。
そこでふりかえってみると、エコロジスト、ベジタリアンは肉を嫌って植物を食べる。動物は生きているが、植物は生きていないというのだろうか。少し前に読んだ『十人の戒められた奇妙な人々』の中でも、「殺すなかれ」の戒律を守るためにアスパラガスばかり食べる人の物語があった。植物的生を生の領域に含まないとしたら、植物人間は生きていないということにならないだろうか。あるいは、脳死状態の身体(これを「新死体」と呼ぶそうだ)はその別名どおり、死体なのか。
「生きている人間」を掘り出して定義することで、切り捨てられる部分は無視されていく。人類学機械によって、植物人間、新死体、イスラム、ユダヤ人、狂人、ひきこもりなどは非人間の領域に遺棄されるのではないか。
江戸時代は家康の言葉「生きぬ(生かさぬ)ように殺さぬように」の体制で農民は支配された。近代は人間の生を政治で支配しようとする。このフーコーの生政治学はアガンベンがもっとも注目する視点なのだ。
「開かれ」はもともとはリルケが『ドゥイノの悲歌』で森の中をさまよう人が突然ぽっかりと開いた空間に出くわしたときに使った用語だそうだ。本書ではその後にハイデガーが現存在が世界に開かれているあり方について使った用法で「開かれ」を使っている。
ハイデガーによると、「石は世界を持たない」「動物は世界貧乏だ(世界でなく、環境世界を持つ)」「人間は世界を形成する」の3組セットで、非生物、動物、人間と世界との関わりを示している。(環境世界、というのは生物学者ユクスキュルの用語で、環境一般なんてものはなくて、その一部の有意味の部分だけで生きる、みたいなこと。たとえば、ダニにとっては他のいっさいの部分を感知せず、ただ動物の体温のみによって反応する、とか)動物は言わば環境によって閉ざされているが、人間にとっては世界は自由に開かれているのだ。
冒頭に戻って、人間の完全体が人間でも動物でもない姿をしている意味は、近代特有の人類学機械なんか止めてしまって、人間とそれ以外を分ける境界線そのもの(チェズーラ)に目を向けることを提唱しているのだ。
この本は「開かれ」、「人間と動物」等のテーマについて、散弾銃のように述べられている。それぞれの章で書かれていることを1本の線でつなぐのは相当の力技を要すると思う。
拾いそこねた話題を挙げて行けば、それだけで1冊の本が出来、それならば最初からこの『開かれ』を読め、という結論になるのだ。
ユクスキュルの環境世界の話を誤用(?)すれば、僕はこの本を読んで、自分にとって有意味な部分だけ読み取っているダニみたいなもんだ。ユクスキュルを使わずとも、昔から「猫に小判」という言葉もある。人類学機械で人間から排除されても仕方ないなー、と思った。この本読んだ結論がそれか?
それにしても、思想の世界では、ダジャレが横行している。
このアガンベンでも「開かれ」(リヒトゥンク)は「無化」(ニヒトゥンク)されていたのだ、なんて平然と書いていたりする。
ラカンの本なんてダジャレで成り立っているようなもんだ。
翻訳者によってもっと面白くなる可能性もある。
でも、そんなダジャレに足をすくわれることなく読めたのもよかったのかもしれない。
2日ほど前から、また風邪をひいてしまったようだ。
気温が下がれば風邪をひく、ああ、ベタな風邪のひき方!
しかも、家族がそんなベタな風邪のひき方をしたのをうつされる、というベタの上にもベタを重ねた風邪のひき方だ。
風邪をひいて嫌なのは何よりも眠くなってしまうところだ。
鼻がつまって呼吸がしづらいので、仕事中も足をあげて腹筋運動することで、かろうじて鼻を通している。ああ、めんどうくさい。
あっ間違えた。ジョルジョ・アガンベンの『開かれ』を読んだ。サブタイトルに「人間と動物」とある。
本書ではまず13世紀のヘブライ語聖書の中にある「エゼキエルの幻視」と名付けられた細密画から話がはじまる。そこには最後の審判の日における義人たちの宴が描かれているのだが、その義人の姿を見ると、動物の顔をしていたりするのである。義人というのは人間としての完全体なのに、なぜ半人半獣の姿なのか。
本書は人間と動物の違いについて、生物学的な見地や哲学的な見方で探究していく。人間を動物と分かつものとして使われるのが、フリオ・イエージが用いた「人類学機械」という考え方だ。
人間を動物や非人間と区別して、人間を製造する装置を人類学機械と名付けたのだ。たとえば、人間中心主義などはりっぱな人類学機械に入る。
また、人間を動物や非人間と峻別する操作は、同時に生の問題にもかかわってくる。「生とは何か」は「人間とは何か」と密接に結びついているのだ。
アリストテレスは『魂について』で栄養の能力による植物的生を生の範疇におさめた。この「植物的生」の考え方は、18世紀フランスのビシャによる「器質的な生」「動物的な生」の区別にも応用される。器質的生は血液や呼吸などによる循環で、動物的生は外部世界との関係を意味する。
そこでふりかえってみると、エコロジスト、ベジタリアンは肉を嫌って植物を食べる。動物は生きているが、植物は生きていないというのだろうか。少し前に読んだ『十人の戒められた奇妙な人々』の中でも、「殺すなかれ」の戒律を守るためにアスパラガスばかり食べる人の物語があった。植物的生を生の領域に含まないとしたら、植物人間は生きていないということにならないだろうか。あるいは、脳死状態の身体(これを「新死体」と呼ぶそうだ)はその別名どおり、死体なのか。
「生きている人間」を掘り出して定義することで、切り捨てられる部分は無視されていく。人類学機械によって、植物人間、新死体、イスラム、ユダヤ人、狂人、ひきこもりなどは非人間の領域に遺棄されるのではないか。
江戸時代は家康の言葉「生きぬ(生かさぬ)ように殺さぬように」の体制で農民は支配された。近代は人間の生を政治で支配しようとする。このフーコーの生政治学はアガンベンがもっとも注目する視点なのだ。
「開かれ」はもともとはリルケが『ドゥイノの悲歌』で森の中をさまよう人が突然ぽっかりと開いた空間に出くわしたときに使った用語だそうだ。本書ではその後にハイデガーが現存在が世界に開かれているあり方について使った用法で「開かれ」を使っている。
ハイデガーによると、「石は世界を持たない」「動物は世界貧乏だ(世界でなく、環境世界を持つ)」「人間は世界を形成する」の3組セットで、非生物、動物、人間と世界との関わりを示している。(環境世界、というのは生物学者ユクスキュルの用語で、環境一般なんてものはなくて、その一部の有意味の部分だけで生きる、みたいなこと。たとえば、ダニにとっては他のいっさいの部分を感知せず、ただ動物の体温のみによって反応する、とか)動物は言わば環境によって閉ざされているが、人間にとっては世界は自由に開かれているのだ。
冒頭に戻って、人間の完全体が人間でも動物でもない姿をしている意味は、近代特有の人類学機械なんか止めてしまって、人間とそれ以外を分ける境界線そのもの(チェズーラ)に目を向けることを提唱しているのだ。
この本は「開かれ」、「人間と動物」等のテーマについて、散弾銃のように述べられている。それぞれの章で書かれていることを1本の線でつなぐのは相当の力技を要すると思う。
拾いそこねた話題を挙げて行けば、それだけで1冊の本が出来、それならば最初からこの『開かれ』を読め、という結論になるのだ。
ユクスキュルの環境世界の話を誤用(?)すれば、僕はこの本を読んで、自分にとって有意味な部分だけ読み取っているダニみたいなもんだ。ユクスキュルを使わずとも、昔から「猫に小判」という言葉もある。人類学機械で人間から排除されても仕方ないなー、と思った。この本読んだ結論がそれか?
それにしても、思想の世界では、ダジャレが横行している。
このアガンベンでも「開かれ」(リヒトゥンク)は「無化」(ニヒトゥンク)されていたのだ、なんて平然と書いていたりする。
ラカンの本なんてダジャレで成り立っているようなもんだ。
翻訳者によってもっと面白くなる可能性もある。
でも、そんなダジャレに足をすくわれることなく読めたのもよかったのかもしれない。
2日ほど前から、また風邪をひいてしまったようだ。
気温が下がれば風邪をひく、ああ、ベタな風邪のひき方!
しかも、家族がそんなベタな風邪のひき方をしたのをうつされる、というベタの上にもベタを重ねた風邪のひき方だ。
風邪をひいて嫌なのは何よりも眠くなってしまうところだ。
鼻がつまって呼吸がしづらいので、仕事中も足をあげて腹筋運動することで、かろうじて鼻を通している。ああ、めんどうくさい。
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