歌野晶午の『ジェシカが駆け抜けた七年間について』を読んだ。女子マラソンを題材にとり、カントクのために選手生命を奪われ自殺した女性と、その女性のためにカントクを殺そうとする女性の物語。
以下、ネタバレするので、読む予定の人は、ここまで。
この小説は、新本格おなじみの、時制の混乱をトリックに使っている。
日本での話だと思ってたら、外国だった、とか、ここで話題になっているオリンピックはソウルオリンピックではなく、東京オリンピックなのだ、とか、子供の話だと思わせておいて、実は親の話だったとか、午後だと思わせているが、実際は午前とか、いろいろバリエーションのある時間トリックだ。
ここでは、エチオピア時間、エチオピア暦による錯覚を読者に呼び起こさせて、最後にどんでん返しを狙っている。
で、その試みがどうだったかというと、これは押井守の本の感想のときに書いた、ジャンル内作品の域を出ていないと思える。新本格大好きな人間でないと、なかなか認められない作品とみた。
なぜか。
「こうだと思っていたら、実はああだった」という錯覚は、「実は」の後がなじみ深いものであってはじめて成立する感情だ。西暦じゃなくてエチオピア暦だった。なんて言われても、何のためにそんなことを?と思うしかない。
しかも、話を近未来に設定することで、エチオピア暦や時間だけでは説明しきれない事柄に修正をはかる。たとえば、マラソン競技が夜に開催される、とか。
現在(実際)にはない事柄を設定して話のつじつまをあわせるのなら、なにもエチオピア暦など持ち出す必要はない。事件の後、西暦は廃止され、新たな暦が作られたと設定してもいいわけだ。「その暦は1年が150日で、1日は36時間である。マラソンの定義も変わって、砲丸を遠くに投げる競技のことを指すようになった」と言ってしまってもかまわない。
「21世紀ではこうだったが、この事件の起こった30世紀ではまるで意味が違ったのだ」と書いてもいいわけだ。読者が納得できるかどうかを無視すれば。
そんなことはまあいい。
読者の勘違いが解けたとき、物語としてその小説は面白いのかどうかだ。
たとえば『殺戮にいたる病』も読者の勘違いを解いて、新たな様相を提示し、感動を呼んだ作品だ。これは、ただ「だまされた!」「やられた!」だけじゃなく、勘違いが解けた後に、事件の実態が明らかになったとき、その実態の恐さに読者は鳥肌をたてたのだ。あるいは、作品全体に周到に仕組まれた罠の技術に拍手を送ったのだ。
残念ながら『ジェシカが駆け抜けた七年間について』はどんでん返しも決まらず、ストーリーとしても心に届かなかった。なによりも、真相がわかって、ちっとも悔しく思わなかったのが本作が凡作だということを証していないか。
ただ、僕は歌野晶午の代表作たる『葉桜の季節に君を想うということ』をまだ読んでいない。それを読んだ後では印象も変わるかもしれない。

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