高山宏の『殺す・集める・読む 推理小説特殊講義』を読んだ。
文化史の視点から推理小説をとらえる、いつもの高山節が冴える。
推理小説が19世紀にポー、ドイルによって「発明」され、日本では1920年代に江戸川乱歩が導入する経緯を推理する刺激的な論考が並んでいる。
キーワードになるのは、「室内」「顕微鏡」そしておなじみの「ピクチャレスク」など。
「室内」というのは、推理小説で「密室」が魅力的な題材として使われることから、きわめて特徴的なキーワードなのだが、この「室内」文化そのものが世紀末の発明品だと言う。世界を自分から隔絶し、対象(モノ)として細密に読み込む19世紀末人にとって、推理小説はうってつけの品物なのだ。推理小説で殺人が描かれる理由もここに潜んでいる。すべてはピクチャレスクのなせるわざだったのだ。
近年、殺人どころか犯罪自体が登場しない日常の謎を解く推理小説が一部で人気だ。これは、僕の考えによると、味だけ味わって、胃のなかに食物をいれずに済む、ノンカロリーっぽい嗜好だと思う。謎と意外な解決、その解決に至るまでの刺激的な推理があれば、殺人など必要ないということだ。もともと殺人をほぼ必要としてきた推理小説の発展形態として、それもありなのだろう。しかし、そればかりではつまらないのも確かだ。カロリーだけ高くて味の悪い、単なる人殺し小説ばかりではつまらない。かと言ってノンカロリーばかりではいくら味がよくても、生命力が衰えてしまう。そう。僕が日常の謎の小説を読んで思うのは、技の素晴らしさと、それに反比例した生命力の弱さなのだ。潔癖とか、衛生とか、清潔とか、無菌など、神経症的事柄の数々に、日常の謎小説はつながりやすいのではないか。読んで何のインパクトもセンセーションも起こさない小説なんて、何のためにあるのかわからない。人生訓めいた文句や詩、力づける言葉の本なんて読んでいる輩は、生命力が弱いのだ。まあ、癒しのために読んでいるんだから、生命力が弱い、なんてのは同語反復になるか。
しかし、ホームズなどの名探偵ものが、もたらしてくれるのが「回収」だとは、自分の否定し去りたい思春期を思い起こさせて、こっ恥ずかしい。僕が推理小説を読みはじめたのは小学生の頃だが、中学時代には、児童向け推理小説に関しては近所の本屋よりも自室の本棚の方が遥かに充実していた。その衝動が、回収にあったとは!
「回収」の詳しい内容は、本書にあたってほしい。ここでは、推理小説の本質をあばかれて、自分の安定志向を暴露してしまい、いたたまれない思いをしたことだけ書いておく。

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