高山宏の『ふたつの世紀末』を読んだ。この本が、東京に持って行ってバスの中で読んでいた本だ。やっと読み終えた。雑誌『ユリイカ』に連載されていた文章に加筆訂正した本。雑誌に載っていた文章を読んで、頭から煙出して昏睡していたんだから、僕の脳みそのポンコツぶりが知れよう。
本書でのふたつの世紀末とは、20世紀末と18世紀末。この2つの世紀末が何だか似かよっていて、通底しているんじゃないか、という趣旨を述べている。
18世紀末は産業革命、ロマン派、ピクチャレスク、崇高美学、エンクロージャー、アンニュイ、セノグラフィー(舞台装置)をキーワードとし、ド・ラウサーバーグが作ったエイドフュージコンにどう反映されているかを列挙しており、順に「機械、運動、フレーム、カタストロフィー、パノラマ眺望、効果、遠近法」をあてている。エイドフュージコンが何なのかは、いずれ『ロンドンの見世物』を読み終えたときに紹介できるかと思うが、まあ、映画というものが出来るまで、人々の目を楽しませた光学からくりか。
18世紀末の特徴を僕なりに羅列してみると、
倦怠により、旅行と自殺が流行。
自分を安全圏において、他人の苦痛を見ることに逸楽を覚える。
自然そのものでなく、それをフレ−ムつきの絵として見る。
ダサさを嫌い、変化と速度に淫する。
実体を求める博物学志向が搾取と殺戮の上に成り立つ。
廃虚と監獄と光学見世物が時代をあらわす。
これら18世紀末の諸特徴は、20世紀末にもあてはまるのではないか、と本書では言っているのだ。
この本は1985年に連載されており、ニューアカデミズムや、博物学など、当時流行した事柄にもからめながら論をすすめている。
そこで、面白く思ったのは、現代は確かに18世紀末に似ているように思える。でも、連載された20年前とは全く違うように思えるのだ。200年前の方が20年前よりも、より現代に近いと感じるのは、いったいどういうわけだ。
本書でのふたつの世紀末とは、20世紀末と18世紀末。この2つの世紀末が何だか似かよっていて、通底しているんじゃないか、という趣旨を述べている。
18世紀末は産業革命、ロマン派、ピクチャレスク、崇高美学、エンクロージャー、アンニュイ、セノグラフィー(舞台装置)をキーワードとし、ド・ラウサーバーグが作ったエイドフュージコンにどう反映されているかを列挙しており、順に「機械、運動、フレーム、カタストロフィー、パノラマ眺望、効果、遠近法」をあてている。エイドフュージコンが何なのかは、いずれ『ロンドンの見世物』を読み終えたときに紹介できるかと思うが、まあ、映画というものが出来るまで、人々の目を楽しませた光学からくりか。
18世紀末の特徴を僕なりに羅列してみると、
倦怠により、旅行と自殺が流行。
自分を安全圏において、他人の苦痛を見ることに逸楽を覚える。
自然そのものでなく、それをフレ−ムつきの絵として見る。
ダサさを嫌い、変化と速度に淫する。
実体を求める博物学志向が搾取と殺戮の上に成り立つ。
廃虚と監獄と光学見世物が時代をあらわす。
これら18世紀末の諸特徴は、20世紀末にもあてはまるのではないか、と本書では言っているのだ。
この本は1985年に連載されており、ニューアカデミズムや、博物学など、当時流行した事柄にもからめながら論をすすめている。
そこで、面白く思ったのは、現代は確かに18世紀末に似ているように思える。でも、連載された20年前とは全く違うように思えるのだ。200年前の方が20年前よりも、より現代に近いと感じるのは、いったいどういうわけだ。
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