庭の綺想学―近代西欧とピクチャレスク美学
2004年7月22日 読書
最近高山宏の本を集中的に読んでいる。
今日読んだ『庭の綺想学』では、テーブル、シノワズリー、ピクチャレスク、庭等をキーワードにして、近代西欧を語る。
この本を読んで思ったのは主にピクチャレスクについてだった。
ピクチャレスクは「絵のような」ということだが、そこから高山宏は合わせ鏡の無限反復、悪循環とも言える世界の認識を暴いてみせる。
もともと自然を絵画として切り取って風景画にしたとき、自然は切り殺されて絵になるのである。さらに、その風景画をモデルにして「庭」が作られる。まるで風景画のような庭(人工)が出来上がるのだ。さらに、その庭を写生して風景画を描く画家たちによって、人工の庭と人工の風景画のあいだで鏡の反復、循環がはじまる。そのときにはもともとの自然などかえりみられないのである。
このような「庭」の登場は「所有」の観念が普及する18世紀のことだという。自然を切り取って所有しようとするのが造園術なのだ。
では、現在ではこの反復はどうなっているのだろう。
風景画になるような自然そのものが、既にアーカイブ化しており、引用のためのものとして存在している。これは18世紀の延長線上にある見方なので、わかりやすい。
ただ、18世紀と違って、今や「所有」するのは一握りの貴族ではなく、万人が所有への欲望を抱いている。
風景画として切られた自然はその枠組みとして「額縁」を使ったが、今ではモニターのフレームがそれにあたるのではないか。
自然を切り取った風景画は今では写メールがその役割をになっている。
高山宏はこうしたピクチャレスクの問題を、制度の問題としてとらえている。今、写メールや、デジカメで何でもかんでも写し取っている人々は、世界の殺戮者なのであり、制度の側に立つ「世界を止めてしまう」者たちなのだと言えるだろう。先日読んだ本の言葉で言えば、過視の世界への傾斜だ。
まあ、こんな世界殺されてもいいや、とも思うが、そうしたときに心の中に響いてくる歌声はこう告げて、僕の考えをただしてくれる。
「どんなに汚れても、地球に愛を。ここがわたしたちの星よ」
(制服向上委員会)
今日読んだ『庭の綺想学』では、テーブル、シノワズリー、ピクチャレスク、庭等をキーワードにして、近代西欧を語る。
この本を読んで思ったのは主にピクチャレスクについてだった。
ピクチャレスクは「絵のような」ということだが、そこから高山宏は合わせ鏡の無限反復、悪循環とも言える世界の認識を暴いてみせる。
もともと自然を絵画として切り取って風景画にしたとき、自然は切り殺されて絵になるのである。さらに、その風景画をモデルにして「庭」が作られる。まるで風景画のような庭(人工)が出来上がるのだ。さらに、その庭を写生して風景画を描く画家たちによって、人工の庭と人工の風景画のあいだで鏡の反復、循環がはじまる。そのときにはもともとの自然などかえりみられないのである。
このような「庭」の登場は「所有」の観念が普及する18世紀のことだという。自然を切り取って所有しようとするのが造園術なのだ。
では、現在ではこの反復はどうなっているのだろう。
風景画になるような自然そのものが、既にアーカイブ化しており、引用のためのものとして存在している。これは18世紀の延長線上にある見方なので、わかりやすい。
ただ、18世紀と違って、今や「所有」するのは一握りの貴族ではなく、万人が所有への欲望を抱いている。
風景画として切られた自然はその枠組みとして「額縁」を使ったが、今ではモニターのフレームがそれにあたるのではないか。
自然を切り取った風景画は今では写メールがその役割をになっている。
高山宏はこうしたピクチャレスクの問題を、制度の問題としてとらえている。今、写メールや、デジカメで何でもかんでも写し取っている人々は、世界の殺戮者なのであり、制度の側に立つ「世界を止めてしまう」者たちなのだと言えるだろう。先日読んだ本の言葉で言えば、過視の世界への傾斜だ。
まあ、こんな世界殺されてもいいや、とも思うが、そうしたときに心の中に響いてくる歌声はこう告げて、僕の考えをただしてくれる。
「どんなに汚れても、地球に愛を。ここがわたしたちの星よ」
(制服向上委員会)
コメント