食人宴席―抹殺された中国現代史
2004年7月20日 読書
鄭義(ツェン・イー)の『食人宴席』を読んだ。この本は何年も前に、根本敬さんに薦められた本だ。当時、早速本屋で買って読みはじめたものの、あまりにも凄惨な話で途中で放り出してしまったままだった。昨日の根本さんのイベントで思い出して、一から読み直してみた。今回はなんとか読了。
内容は、中国の文化大革命時の広西大虐殺事件を扱っている。文化大革命のときは「覇王別姫」で見るように、文化人、知識人、金持ちたちが階級闘争の名のもとにリンチされたり、虐殺されたりした。裁判も法律も、さらには理由なども関係なく、目をつけられた者は、狂ったように興奮する群集に「殺せ!」と言い立てられて、咎なくて死んでいったのだ。広西ではそれが虐殺に終わらず、人肉を食べる大宴会になった。中国の広西省では文化大革命時に無実の罪で虐殺された人間は9万人にのぼるという。文化大革命は1966年から10年も続かなかったのだから、毎日毎日何十人も殺されていたのではないか。
鄭義は食人の3段階を記している。まず、処刑された死体を夜にこっそり解体して、肝を盗んで持って帰るこそこそ段階、高潮期には集会を開いてライブで処刑、その場で解体し、おおっぴらに人食いができた。第3段階に入ると、食人大衆運動期で、人肉が目的であるかのように、糾弾集会が開かれ、言い掛かりをつけて多くの人間を殺し、いや、まだ生きていても肉を削がれていった。手際のよい解体方法まで普及した。胸のところを「人」の字に切り裂いて、下腹部をドンと踏むと、肝臓と心臓(おいしい部分)がピョンと出てくるのだ。群集は毎日、文字通り度胆を抜くリンチで大宴会をひらいていたのだ。
鄭義は中国映画「古井戸」の原作小説を書いた人物。センセーショナルな本だが、一応の文化人が書いたものだ。
鄭義は人食いについて糾弾しているのだが、中国では人食いに対するタブー感はあまりなかったのじゃないか、と思って、中野美代子の『カニバリズム論』をぱらぱらと読み返してみた。たしかに、人肉は「おいしい」し、漢方薬として食べられることもあるとして、西欧ほどのタブーではないと書いてあった。人肉饅頭なんて香港映画もあった。
魯迅の『狂人日記』は自分が食われるんじゃないかと妄想し恐怖する話だが、中国料理店によくある、大きくて真中に回転台のついた丸いテーブルのことをふと思い出した。エリアス・カネッティによると、同じテーブルで食事をとるという行為は、そのメンバーが「食べる側」の者であることを約束するためのものだという。つまり、そこでは「食べられる側」の人間はいない、ということを確認し、強調するために、会食という風習が生まれたというのだ。同じテーブルを囲んで食べているかぎり、そこでは共食いは起こらない了解があるのだ。(『群集と権力』)中国料理の大きな丸テーブルは、人食いが起こっても不思議ではない中国ならではの、「食われたくない」感情の賜物ではないか。
1冊読んだだけでおなかがいっぱいだ。なお、この本は大部の原著から一部を抜粋して翻訳したものらしいが、最終章の「マルクス主義と孔子」は前章までのつながりも悪く、あえて訳す必要がなかったのではないか、と思った。
しかし、この本、根本さんと居酒屋でごはん食べてるときに紹介してくれた本なのだ。食事中にこの本を話題にしたあたりがいかにも根本さんっぽい。
今日、テレビで「鏡の国のアリス」を放送していた。
アリス役のケイト・ベッキンセイルは明らかに20代で、ルイス・キャロルのアリスとは全然違う雰囲気だった。ファッションはディズニーのアリスっぽかった。なにせ、こどもにお話を聞かせる母親の方が鏡の中に入っていくのだ。ただ、「かつらをかぶった雀蜂」のエピソードも映像化されていて、時の移り変わりというものを感じた。このエピソードは、僕が学生時代に新たに発見されたエピソードだったのだ。イアン・ホルムの白の騎士はまあまあだったかな。
なんばシティにムエタイ映画「マッハ」のトニー・ジャーが来ていたので見に行った。ちょうど、はけるときにすぐ近くを通ったので、ジャーの腕にさわることができた!
内容は、中国の文化大革命時の広西大虐殺事件を扱っている。文化大革命のときは「覇王別姫」で見るように、文化人、知識人、金持ちたちが階級闘争の名のもとにリンチされたり、虐殺されたりした。裁判も法律も、さらには理由なども関係なく、目をつけられた者は、狂ったように興奮する群集に「殺せ!」と言い立てられて、咎なくて死んでいったのだ。広西ではそれが虐殺に終わらず、人肉を食べる大宴会になった。中国の広西省では文化大革命時に無実の罪で虐殺された人間は9万人にのぼるという。文化大革命は1966年から10年も続かなかったのだから、毎日毎日何十人も殺されていたのではないか。
鄭義は食人の3段階を記している。まず、処刑された死体を夜にこっそり解体して、肝を盗んで持って帰るこそこそ段階、高潮期には集会を開いてライブで処刑、その場で解体し、おおっぴらに人食いができた。第3段階に入ると、食人大衆運動期で、人肉が目的であるかのように、糾弾集会が開かれ、言い掛かりをつけて多くの人間を殺し、いや、まだ生きていても肉を削がれていった。手際のよい解体方法まで普及した。胸のところを「人」の字に切り裂いて、下腹部をドンと踏むと、肝臓と心臓(おいしい部分)がピョンと出てくるのだ。群集は毎日、文字通り度胆を抜くリンチで大宴会をひらいていたのだ。
鄭義は中国映画「古井戸」の原作小説を書いた人物。センセーショナルな本だが、一応の文化人が書いたものだ。
鄭義は人食いについて糾弾しているのだが、中国では人食いに対するタブー感はあまりなかったのじゃないか、と思って、中野美代子の『カニバリズム論』をぱらぱらと読み返してみた。たしかに、人肉は「おいしい」し、漢方薬として食べられることもあるとして、西欧ほどのタブーではないと書いてあった。人肉饅頭なんて香港映画もあった。
魯迅の『狂人日記』は自分が食われるんじゃないかと妄想し恐怖する話だが、中国料理店によくある、大きくて真中に回転台のついた丸いテーブルのことをふと思い出した。エリアス・カネッティによると、同じテーブルで食事をとるという行為は、そのメンバーが「食べる側」の者であることを約束するためのものだという。つまり、そこでは「食べられる側」の人間はいない、ということを確認し、強調するために、会食という風習が生まれたというのだ。同じテーブルを囲んで食べているかぎり、そこでは共食いは起こらない了解があるのだ。(『群集と権力』)中国料理の大きな丸テーブルは、人食いが起こっても不思議ではない中国ならではの、「食われたくない」感情の賜物ではないか。
1冊読んだだけでおなかがいっぱいだ。なお、この本は大部の原著から一部を抜粋して翻訳したものらしいが、最終章の「マルクス主義と孔子」は前章までのつながりも悪く、あえて訳す必要がなかったのではないか、と思った。
しかし、この本、根本さんと居酒屋でごはん食べてるときに紹介してくれた本なのだ。食事中にこの本を話題にしたあたりがいかにも根本さんっぽい。
今日、テレビで「鏡の国のアリス」を放送していた。
アリス役のケイト・ベッキンセイルは明らかに20代で、ルイス・キャロルのアリスとは全然違う雰囲気だった。ファッションはディズニーのアリスっぽかった。なにせ、こどもにお話を聞かせる母親の方が鏡の中に入っていくのだ。ただ、「かつらをかぶった雀蜂」のエピソードも映像化されていて、時の移り変わりというものを感じた。このエピソードは、僕が学生時代に新たに発見されたエピソードだったのだ。イアン・ホルムの白の騎士はまあまあだったかな。
なんばシティにムエタイ映画「マッハ」のトニー・ジャーが来ていたので見に行った。ちょうど、はけるときにすぐ近くを通ったので、ジャーの腕にさわることができた!
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