ひさしぶりに劇場で映画を見た。
ティント・ブラスの「桃色画報」
「サロンキティ」のティント・ブラスも70才だ。6つの好色なエピソードが綴られているが、その天真爛漫というかおおっぴらさには感心する。セックスにつきものの苦悶の表情など無縁だ。みんな陽気でにこやかで楽しげなのだ。1つ1つのエピソードはこれと言ったオチもなく、古典の「デカメロン」「カンタベリ−物語」ほどの趣向も文学性もないのだが、見ていてかなりパワーが湧いて来た。好色パワーはあなどれない。この手のHな物語では、「イク」ことを至上としているものが見られるが、そんなのはつまらないのだ。シチュエーションやプロセスに味わいがあって楽しくなってくる。出演している女性は年齢高めで身体の形もくずれている人も多いが、それがまたいいのだ。お尻が特に魅力的に撮られていた。

あだち充の実兄、あだち勉の訃報を新聞で見たあと、「おはスタ」でサンデーの石井さんが「タッチ」の歌を歌いながらレオタードでリボンをくるくる回していた。合掌。
テレビで楳図かずお、篠原ともえを見た。
元気そうでなにより。

『倫理21』柄谷行人著を読んだ。
親の責任を問う日本の特殊性から説きはじめて、カントの倫理学を援用しながら戦争責任の問題までを考える本だ。
倫理学というと、アリストテレスあたりでは何が善で何が悪かを解明していく思考がなされたが、バディウではそんな倫理一般はないのだと喝破する。柄谷行人は倫理を責任の問題としてとらえる。それは自由について思考することなのだ。
柄谷の言う「自由」とは純粋に自発的な行為であることをさす。
やりたいことをやりたいようにしていても、自由ではないのだ。
餃子のたれを作るとき、酢と醤油の割合は「自由」のはずだが、それは実は自由ではない。味覚に縛られているからだ。
共同体の規範に従ったり、欲望の命令に従っているかぎり、それは自律的とは言えないのだ。
スピノザは、人間は自然(情念)に複雑に規定されて生きており、そこには自由意思などないと言った。自由意思がないのなら、そもそも犯罪すら成立しないことになる。柄谷は自由意思などないことをいったんは認めたうえで、それでも「自由であれ」の命令にしたがおうとするところに人間としての特質を見る。
この本は柄谷の本にしては異様なほど読みやすいので、詳しい内容については読んで確かめていただきたい。人間個人の倫理について思考する部分は「なるほど」と思わせるものがあるが、国家、戦争責任の話になると、乱暴というか、荒っぽく(粗っぽく)なってくる。それは国家に倫理なんて当てはめようとするのが無茶だからなのかもしれない。「ならず者国家」とは「ならず者=国家」というのが一般的な真理なのかもしれない。
読んでいて考えたことを少し書いておくと。
自由とは自分が今から何をするか等、自分がなにものであるかを自分で決めることができることだと思う。そして、その決めたことにもとらわれないのだ。「自分の売り」とか「自分の長所」「得意分野」「自分らしさ」なんてものが、自分を縛り付けていないかどうか。「自分にはそれは似合わない」とか「自分にはそれはできない」なんて考えるのは不自由だ。自分はオールマイティなのだ。なぜなら、それは自分だから。

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