この日は日記をつけ忘れていて、何があったのか覚えていない。
仕事とその準備で15時間と睡眠時間をひいた時間でしたことなんて、たぶん、たいしたことじゃないはずだ。せいぜいが、読書の続きとゲームの続きと録画しておいたテレビ番組を見たり、つまり、なにか「やり終えた」ことではないことを平行してしていたはずだ。
そこで、最近の日記で書き漏らしていたことなどを今のうちに書き留めておこう。
『日本終末宣言』では食物の中に含まれた水銀が、体温計の水銀が温度の上昇とともに上がっていくように、体内を上がっていき、ついには脳に達する「脳水銀」について再三書かれている。
最近の若い世代の人が理解できない行動をとるのは、この脳水銀のせいだ、と言う。そして、体内の水銀を排出する方法として出産があげられている。赤ちゃんは親の水銀を体内にいっぱい含んで生まれるのだ。こんにゃくの砂おろしが頭に浮かんだ。最初に生んだ子ほど多くの水銀を含んでいるので、長子は脳水銀になる可能性が高い。総領の甚六という言葉には意味があったのだ。
少子化した現代では、世の中は脳水銀の長子の割合が高くなっているから、未来の展望は暗いのだ。
出産以外に水銀を排出するのは、髪の毛によってである。
そう言えば、髪の毛で水銀含有量をはかる記事を見たことがあるので、髪の毛を多く、長くもっている人ほど、水銀は排出されているのだ。スキンヘッドの人は脳を救う道を閉ざしているのだ。
『倫理』を読んで気になったこと。
訳者の長原豊は、サイードの『フロイトと非ヨ−ロッパ人』も翻訳した人だ。この人の文章はとても読みにくい。
そして、「すべからく」の誤用が目立つ。
「すべからく」は「みんな」「すべて」という言葉を重々しく言い換えるための言葉ではないのだ。「すべからく」のような基本的な言葉を堂々と誤用する人の文章を四苦八苦しながら読み解いていると、「ひょっとしたら、もっとわかりやすい文章にできるのに、あえて難解な用語を選んでいるのではないか」「しかも、その言葉の選択は間違っているかもしれない」という疑問が湧いて来たりする。
この本の後半に掲載された対談で、長原氏が翻訳にあたって、ある用語を「忠実」と訳したことについて、自嘲的に「ベタだなと思う」と語っている。ベタを価値の低いものとして見ているのだ。
わかりやすい文章を書くのが嫌なのだろうか。
ベタなことをいかにしてその後のフォローで面白いものにするか、というのは、最近ブームのお笑いでも見て勉強していただきたい。
1つ1つのコントの内容は非常にくだらなくても、その後に決まり文句を入れてみたり、コメントを入れてみたり、つまり、メタ「お笑い」というか、メタ「ネタ」の部分でお笑いは面白さの道を開いているのだ。
安田大サーカスもマイケルもギター侍もネゴシックスも、すべて参考になる。
長原豊はこれらお笑いを見に行ったり、番組を見たりしているだろうか。見ていないとしたら、見てほしい。会話の際に文末についている(笑)がいかに今のお笑いのレベルから見てお笑い草なのかがわかるだろう。
と、言いながらも、くだらないことをした後に「だから何?」とメタネタぶる僕の芸風は、実に効果的じゃないなあ、もっと練らないとな、と思った。僕はお笑いじゃないのに。
仕事とその準備で15時間と睡眠時間をひいた時間でしたことなんて、たぶん、たいしたことじゃないはずだ。せいぜいが、読書の続きとゲームの続きと録画しておいたテレビ番組を見たり、つまり、なにか「やり終えた」ことではないことを平行してしていたはずだ。
そこで、最近の日記で書き漏らしていたことなどを今のうちに書き留めておこう。
『日本終末宣言』では食物の中に含まれた水銀が、体温計の水銀が温度の上昇とともに上がっていくように、体内を上がっていき、ついには脳に達する「脳水銀」について再三書かれている。
最近の若い世代の人が理解できない行動をとるのは、この脳水銀のせいだ、と言う。そして、体内の水銀を排出する方法として出産があげられている。赤ちゃんは親の水銀を体内にいっぱい含んで生まれるのだ。こんにゃくの砂おろしが頭に浮かんだ。最初に生んだ子ほど多くの水銀を含んでいるので、長子は脳水銀になる可能性が高い。総領の甚六という言葉には意味があったのだ。
少子化した現代では、世の中は脳水銀の長子の割合が高くなっているから、未来の展望は暗いのだ。
出産以外に水銀を排出するのは、髪の毛によってである。
そう言えば、髪の毛で水銀含有量をはかる記事を見たことがあるので、髪の毛を多く、長くもっている人ほど、水銀は排出されているのだ。スキンヘッドの人は脳を救う道を閉ざしているのだ。
『倫理』を読んで気になったこと。
訳者の長原豊は、サイードの『フロイトと非ヨ−ロッパ人』も翻訳した人だ。この人の文章はとても読みにくい。
そして、「すべからく」の誤用が目立つ。
「すべからく」は「みんな」「すべて」という言葉を重々しく言い換えるための言葉ではないのだ。「すべからく」のような基本的な言葉を堂々と誤用する人の文章を四苦八苦しながら読み解いていると、「ひょっとしたら、もっとわかりやすい文章にできるのに、あえて難解な用語を選んでいるのではないか」「しかも、その言葉の選択は間違っているかもしれない」という疑問が湧いて来たりする。
この本の後半に掲載された対談で、長原氏が翻訳にあたって、ある用語を「忠実」と訳したことについて、自嘲的に「ベタだなと思う」と語っている。ベタを価値の低いものとして見ているのだ。
わかりやすい文章を書くのが嫌なのだろうか。
ベタなことをいかにしてその後のフォローで面白いものにするか、というのは、最近ブームのお笑いでも見て勉強していただきたい。
1つ1つのコントの内容は非常にくだらなくても、その後に決まり文句を入れてみたり、コメントを入れてみたり、つまり、メタ「お笑い」というか、メタ「ネタ」の部分でお笑いは面白さの道を開いているのだ。
安田大サーカスもマイケルもギター侍もネゴシックスも、すべて参考になる。
長原豊はこれらお笑いを見に行ったり、番組を見たりしているだろうか。見ていないとしたら、見てほしい。会話の際に文末についている(笑)がいかに今のお笑いのレベルから見てお笑い草なのかがわかるだろう。
と、言いながらも、くだらないことをした後に「だから何?」とメタネタぶる僕の芸風は、実に効果的じゃないなあ、もっと練らないとな、と思った。僕はお笑いじゃないのに。
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