サイードの『フロイトと非-ヨーロッパ人』を読んだ。
フロイトの最晩年の作品『モーセと一神教』では、ユダヤ教の創設者モーセが非ユダヤ人のエジプト人であったことを強調している。サイードはユダヤ人フロイトがあえてその事実にこだわったことに着目して、現在のパレスチナ問題につながる視点を提供してくれる。
大雑把に言うと、アイデンティティの正当性には限界があることを認識することで、問題解決のいとぐちが見出せるということなのだろう。
「ユダヤ教の創設者がユダヤ人ではなかった」というアイデンティティのゆらぎは、日本人には珍しくもないことのように思える。仏教はインドで生まれているし、日本国憲法はアメリカが作ったのだ。国技の横綱は外人だし、国民的遊戯のパチンコを経営しているのは日本人ではない。
アイデンティティなんかに惑わされないのが、逆に日本の特徴でもあったと思うのだが、最近はなぜかナショナリズム寄りの言葉が目につくようになってきたように思う。
他国で活躍するジャーナリストやボランティアは「非国民」扱いだ。最近の一番の話題は「国民」年金じゃなかったか。
モーニング娘。を「国民的」アイドルと称するのは、いいかげんにやめてほしいと常々思っている。
ドラッグストア「コクミン」は現在セール中だ。

サイードが言うのは、アイデンティティの一神教信仰には根拠がなく、アイデンティティは同時に複数のものでありうる、とする立場である。アイデンティティを悪しきものとして捨てるのではなく、アイデンティティがどういうものなのかちゃんと理解せよと言っているのだ。

そんなときに、舞城王太郎の『阿修羅ガール』を読んだら、ここでもアイデンティティについて書いてあった。
「自分」「我」がもう何がなんだかわからなくなってしまうが、それを主人公は受け入れ、楽しんじゃうのだ。

アイデンティティなんて、我々は前世紀の遺物だと思っていたけど、まだそんなものを必要とする人がいたことに、少し驚いた。アイデンティティにこだわるのは自分の未熟を大声でアピールするようなもので、恥ずかしいことだと思っていたからだ。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年5月  >>
27282930123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

お気に入り日記の更新

日記内を検索