ATCダンス&ボーカルコンテスト予選、自分の謎
2006年4月23日 アイドル
ATCのダンス&ボーカルフェス予選を見に行った。
10組がエントリーしていたが、そのうち、半分の5組が決勝に駒をすすめた。
その5組は以下のとおり。ヒアリングや表記が正しくないかも。
ダンシングヴィガー(男1人、女3人。今回の予選で、男子は彼1人だけだったと思う)
ZIGU-ZAGU(中1の女子2人)
ホームガール(小2の女子2人)
リズピト(女子7人。「ピト」はタガログ語で「7」の意味)
ドクターピエロ(小4の女子6人。僕がふだんよく履いているCOPOのカラフルな靴下をみんなではいていた)
大会の名前は「ダンス&ボーカル」だけど、決勝に残ったのはダンスのみのチームだけだった。
予選に出た10組のうち、ボーカルは2組だけで、僕が見るかぎり、決勝に残っても遜色ないものだった。「この大会は歌をうたうと不利だ」なんて傾向と対策ができてしまうとつまらないので、何としても残ってほしかったのだが。
残念ながら涙をのんだ5組は、次のとおり。ヒアリングはさらに怪しい。興味のある人は、詳しい人に聞くかネット検索などで調べてください。
セブンアップ(小6の7人)
エムエー(2人)
ビー玉(小3の2人)
ラピストリ(5人。ボーカルで参加。SweetSの「ミエナイツバサ」を歌って踊った)
ひらはらまなみ(ボーカル。ラピストリの子。BoAや倖田來未が好きなんだって)
開催場所が海の近くで、海をバックにダンスのチェックに余念のないキッズたちを見るのは、清清しかった。また、審査発表時に、合掌して祈っていたのも空しく予選落ちしたチームのメンバーが、海面を見つめている姿には心を動かされた。
今回落ちたチームでも、第2回、3回の予選に出場することは可能なようだ。また出て来てもらいたいものだ。
なお、審査のあいだに、SHALE APPLEのライブもあった。
読んだ本は赤瀬川原平の『自分の謎』
目の問題
痛い問題
国境問題
一つだけの問題
強い自分 弱い自分
と章立てされていた。
「目の問題」では、以前に読んだ『目玉の学校』でも触れられていたことが再説されている。
鏡を見たときに、鏡の自分に見られていると思うか、あくまでも自分が見る側に立つか、とかそんなこと。
「痛い問題」というのは、たとえば、爪を切ったとき、爪は自分なのか、違うのか、という疑問からはじめられている。肉体の一部を切ったとき、どちらが「自分」でどちらが「自分でなくなったもの」なのかを決めるのは、痛い側が、自分なのだ。と、そんなことを書いている。
「強い自分 弱い自分」では老人についても触れていた。
各ページにイラストつきで、考える絵本、という感じ。
「自分」っていうのは考えれば考えるほどわからなくなってくる。
でも、僕は「自分」をつきつめて考えるのはやめて、拡大解釈していくことにしている。
自分と非自分の境界を極力なくして、広く広く考えていきたい。
これは、てっとり早く言えば、自分のことについては考えない。自分なんてない、ということなのだ。
こういう方針にしたのは十代に自分のことを頭が痛くなるほど考えていたときからだ。
そのときは、1ヶ月ほど寝巻きのままでベッドと食事やトイレのときだけ動くような生活を送っていた。自分は幽霊みたいだ、と思っていた。
今、考えてみると、そんなふうにつきつめて考えたのも、「自分」なんかないと結論づけて抜けたような性格(今の僕だ)になってしまったのも、自意識過剰のなせるわざ。ナルシシストの自己防衛でしかない、と思える。だからといって、自分的にはこの考え方でいろんな面で楽になっているので、変えるつもりはまったくない。自分を卑下したり、自己嫌悪に陥っているのなら、自分を変えるか、自分をなくせばいいだけの話なのだ。そんな簡単なこともせずに悩むのは、悩み好きなのだとしか思えない。自分で勝手に悩んでいるのは、ひとり遊びだから、自由にやってくれればいいのだと思う。悩んだり、苦しんだりしないと達成感がないとか、生きている実感湧かない人もいるので、大いに悩んでいただきたい。ただし、僕は悩まない。
10組がエントリーしていたが、そのうち、半分の5組が決勝に駒をすすめた。
その5組は以下のとおり。ヒアリングや表記が正しくないかも。
ダンシングヴィガー(男1人、女3人。今回の予選で、男子は彼1人だけだったと思う)
ZIGU-ZAGU(中1の女子2人)
ホームガール(小2の女子2人)
リズピト(女子7人。「ピト」はタガログ語で「7」の意味)
ドクターピエロ(小4の女子6人。僕がふだんよく履いているCOPOのカラフルな靴下をみんなではいていた)
大会の名前は「ダンス&ボーカル」だけど、決勝に残ったのはダンスのみのチームだけだった。
予選に出た10組のうち、ボーカルは2組だけで、僕が見るかぎり、決勝に残っても遜色ないものだった。「この大会は歌をうたうと不利だ」なんて傾向と対策ができてしまうとつまらないので、何としても残ってほしかったのだが。
残念ながら涙をのんだ5組は、次のとおり。ヒアリングはさらに怪しい。興味のある人は、詳しい人に聞くかネット検索などで調べてください。
セブンアップ(小6の7人)
エムエー(2人)
ビー玉(小3の2人)
ラピストリ(5人。ボーカルで参加。SweetSの「ミエナイツバサ」を歌って踊った)
ひらはらまなみ(ボーカル。ラピストリの子。BoAや倖田來未が好きなんだって)
開催場所が海の近くで、海をバックにダンスのチェックに余念のないキッズたちを見るのは、清清しかった。また、審査発表時に、合掌して祈っていたのも空しく予選落ちしたチームのメンバーが、海面を見つめている姿には心を動かされた。
今回落ちたチームでも、第2回、3回の予選に出場することは可能なようだ。また出て来てもらいたいものだ。
なお、審査のあいだに、SHALE APPLEのライブもあった。
読んだ本は赤瀬川原平の『自分の謎』
目の問題
痛い問題
国境問題
一つだけの問題
強い自分 弱い自分
と章立てされていた。
「目の問題」では、以前に読んだ『目玉の学校』でも触れられていたことが再説されている。
鏡を見たときに、鏡の自分に見られていると思うか、あくまでも自分が見る側に立つか、とかそんなこと。
「痛い問題」というのは、たとえば、爪を切ったとき、爪は自分なのか、違うのか、という疑問からはじめられている。肉体の一部を切ったとき、どちらが「自分」でどちらが「自分でなくなったもの」なのかを決めるのは、痛い側が、自分なのだ。と、そんなことを書いている。
「強い自分 弱い自分」では老人についても触れていた。
各ページにイラストつきで、考える絵本、という感じ。
「自分」っていうのは考えれば考えるほどわからなくなってくる。
でも、僕は「自分」をつきつめて考えるのはやめて、拡大解釈していくことにしている。
自分と非自分の境界を極力なくして、広く広く考えていきたい。
これは、てっとり早く言えば、自分のことについては考えない。自分なんてない、ということなのだ。
こういう方針にしたのは十代に自分のことを頭が痛くなるほど考えていたときからだ。
そのときは、1ヶ月ほど寝巻きのままでベッドと食事やトイレのときだけ動くような生活を送っていた。自分は幽霊みたいだ、と思っていた。
今、考えてみると、そんなふうにつきつめて考えたのも、「自分」なんかないと結論づけて抜けたような性格(今の僕だ)になってしまったのも、自意識過剰のなせるわざ。ナルシシストの自己防衛でしかない、と思える。だからといって、自分的にはこの考え方でいろんな面で楽になっているので、変えるつもりはまったくない。自分を卑下したり、自己嫌悪に陥っているのなら、自分を変えるか、自分をなくせばいいだけの話なのだ。そんな簡単なこともせずに悩むのは、悩み好きなのだとしか思えない。自分で勝手に悩んでいるのは、ひとり遊びだから、自由にやってくれればいいのだと思う。悩んだり、苦しんだりしないと達成感がないとか、生きている実感湧かない人もいるので、大いに悩んでいただきたい。ただし、僕は悩まない。
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